昨晩、床に着く前に、大学時代の軽音部のLINEグループに、訃報が入りました。
一学年上(ぼくは浪人だったので年齢は同じ)の友人が、亡くなったとのこと。
彼は、ぼくが軽音部に入って最初に、もう一人の親友とともに声をかけてくれた男でした。
ちょっとクセのあるクールなやつだったけど、音楽への熱意はピカイチで、バンドマンとしてとても尊敬していました。
卒業後はぼくがアメリカに来たせいもあってほとんど連絡も取ってないし、バンドが順調にいっているという噂以外は、仕事のことや生活のことなどは何も知りませんでした。
突然の訃報に正直どうしていいのかわからず、丸一日たった今もまだ、悲しさとかよりもただ「なんだそりゃ」という思いがただ、頭の中を巡っています。
ただ彼の死が、ぼくにある決意をさせてくれました。
カヌーを通して
この日は、Kenn叔父がカヌーでの川下りに連れて行ってくれるという約束だったのですが、昼から雨が降るかもとのことだったので9:30AM頃には家を出て、川へ。
ものすごくワイルドなカヌーの載せ方。
後ろの赤い紐は、カヌーをこのようにして運ぶ時の交通ルールだそうです。
それぞれの車に乗り、Kennを叔父をひたすらついていくこと20分ほど。
一旦カヌーを開始ポイントで降ろし、終了地点でKenn叔父の車を停め、再びKenn叔父をぼくの車に乗せて開始ポイントに向かい、スタート。
「バージニアに来たら絶対にカヌーをしよう」というのは以前からの叔父の言葉で、ぼくもずっとやりたくて、ついに夢が叶いました。
カヌーの経験自体はほぼ初めてで、小さい頃になんかのレクリエーションで一度やったことがあるくらい。
基本的には何もしなくていいよ、とは言われていたのですが、扱い方を知りたくて色々と叔父に教わりました。
先日から何度か言及しているJohn Denverの”Take Me Home, Country Road”の歌い出しの一節。
Almost heaven, West Virginia,
Blue ridge mountain, Shenandoah river
まるで天国、ウエストバージニア。
ブルーリッジ山と、シェナンドー川。
この川はまさに、そのシェナンドー川。
二人でこの曲を口ずさみつつ、水や風に揺れる樹木の音、鳥や虫立ちの声に耳を澄ませました。
無音(サイレント)ではなく、静寂(クワイエット)。
ガチョウの家族や、つがいの鷹。樹木の間をすり抜けていく鹿と、近くの農場で飼われている牛。
自然の中で暮らす彼らに少し警戒の目を向けられつつ、少しだけお邪魔しますごめんね、と出来るだけ静かに水をかいて川を進んでいきます。
水の流れを意識しながら、パドルをどの角度で水につけ、どの向きで水をかくのか。
テクニックではなく、原理を考える。
水の流れをパドル越しに感じながらパドルの動かし方を試行錯誤するのは、まるで、地球とコミュニケーションを取るような感覚で、とてもワクワクしました。(といってもコントロールはほぼ叔父に頼りきり笑)
全く時間を感じさせない楽しいひとときは、気がつけば約二時間近く。
名残惜しかったですが、終了ポイントについた後は見た目ほど重くないカヌーを再び運んで叔父の車に運び入れて帰宅。
このカヌー、もともとは戦闘機を作っていた会社が戦後に作ったカヌーで、ぼくと同じくらいの年齢だそう。
競技ではなく、(地球/自然との)コミュニケーションとしてのアクティビティ。
「生きている」ということを実感できる行為。
日本でも、できる環境で暮らしたい。
古き良きアメリカのダイナー
カヌーの後はすっかりお腹が空いたので、「いかにもアメリカなダイナーに行きたい!」というぼくのリクエストにKenn叔父が連れて行ってくれたのがここ。
内装はまるで映画にでも出てきそうなクラシックなダイナーで、まさにぼくがもとめていたものそのもの。
各所に配置された、絶妙なセンスの小物たちがしびれます。
もう使えないけれど、各席に設置されている小型ジュークボックスのデザインは最高にクールで、音楽のラインナップもアメリカンの60’sロック/ポップスを通ったぼくにはニヤニヤが止まりませんでした
色々悩んで結局食べたのはアボカドバーガー。なんか、結局ハンバーガーばっかり食べてる気がする。いいか。This is アメリカ。
ニューマーケット戦場跡
帰り道に立ち寄ったのは、アメリカ南北戦争における戦場の一つとなった、ニューマーケット戦場跡。
圧倒的不利な状況が続く南軍は、攻め入ってきた北軍に対し士官学校らの若い学生を動員し、この地で北軍を迎え撃ちました。
皮肉なことにこれほど穏やかで鮮やかな景色の広がるこの場所で、何百人もの若い兵士たちが命を落としました。
中でも、士官学校の学生の多くはまだ15歳やそこらだったそうです。
ここで戦いがあったのは1864年。たった150年前。
たった150年前まで、アメリカ人は、アメリカ人同士で殺しあっていました。
ぼくら日本人もそう。
1864年といえばあの池田屋事件の年。幕末維新の真っ只中。
ぼくらも、たった150年前はまだ同じ国の人間同士で殺し合いをしていました。
そして第二次世界大戦が終わったのが1945年。たった70年前。
たった70年前まで、ぼくが今立っているこのアメリカという国と、ぼくの祖国は殺し合いをしていました。
それを思えば、ぼくらはなんというタイミングで生まれてきたのだろう。なんという時代に生きているのだろう。
キャンプファイヤー
夜。
叔父夫妻の家には広い庭があり、キャンプファイヤーが出来ます。
今週は雨続きで残念ながら無理かな、と思っていたのですが、今日は予報が外れて天気が良くなったので急遽行うことに。
木が湿っていたので乾いたものを探すのに手間取りながらも、なんとか火を大きくすることに成功。
叔父が作った吊りベンチにゆられながら、火の弾ける音と鳥のさえずりを聞きつつただひたすらに火を見ていると、驚くほどに心が穏やかになります。
マシュマロを火にかけ、少し茶色くなったところで、クッキーとチョコレートにサンド。
S’more(スモア)と呼ばれるこのカロリーの塊は、アメリカ人にとってキャンプファイヤーには欠かせないもの。
暖かな火を囲みながら、自然の中で味わうこの砂糖の味と食感は、全くお金のかからない、最高の贅沢。
生きるということ
ぼくらはラッキーです。
15歳で徴兵され、なんの仕事をするかという選択肢も与えられず、強制的に銃や操縦桿を握らされたあの時代と違う。
“敵”と呼んだアメリカで大自然の中、アメリカのお菓子を頬張り、幸せを叫ぶことができる。
誰のもとで働くか、何をして生きるか、どこで生きるか、それを自由に選ぶことができる平和な国の、平和な時代にぼくらは生まれました。
そんな平和な時代にもかかわらず、ぼくの友人は自分で命を絶ちました。
仕事が大きな理由だったそうですが、きっとそれ以外にも人間関係だったり、置かれている状況や自己嫌悪など、様々な要因があったのだでしょう。
でも思うのです。
死ぬ勇気があれば、他になんでも出来たんじゃないだろうか?
それとも、彼にとって「死」というのは最も簡単な、問題解決方法だったのだろうか?
この話をした時、叔父はこんなことを言いました。
「Sucide is permanent escape(自殺は、永遠の逃亡だ)」
死ぬということは、現世の苦しみから永遠に逃れられるということ。
あいつは、あいつが逃げたかったものから、無事に逃げることが出来たのだろうか?
そんなに遠くへ逃げたくなるほど、あいつのいた社会は、世界は、辛いものだったのだろうか。
人に迷惑をかけてでも、ちょっとくらい無茶をしても、もう少し近場に逃げることは出来なかったのだろうか?
…
…
…
今更色々思ったところで、あいつに聞くことはもう出来ません。
別に、死んだあいつのことを責める気もないし、あいつの選択を悪いことだとも思いません。
追い詰められてしまった、それを選ばざるをえなかった人間の心境を理解することは出来ないから。
ただぼくはこの訃報を受けて、意地でも生きてやると思えたし、生きるためなら「死なない程度に逃げる」と決めました。
(できればあいつにも、そうして欲しかったな、と思うのです。)
例えばこれから日本社会で生きることが辛くなっても、場所を変えて生きる。
違う世界にはまた、知らない楽しみが、喜びがあるから。(この日のシェナンドー川のカヌーやキャンプファイヤー然り)
なぁ。俺はまだまだ生きるよ。辛いことがあったら、死なない程度に逃げるよ。何があっても、命にしがみつくよ。
だって、世界には、まだまだ俺らが知らない、素晴らしい景色や、楽しいことがたくさんあるんだから。
この日の模様を動画でも
そんな感じで。