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祖父のカメラとぼくとニューヨーク。

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祖父が亡くなったのは、ぼくが小学校に入学して間も無い頃。
だからもう、20年以上も前のことだ。

彼は近々取り壊しの決定している大丸心斎橋店の催し場やディスプレイを手がけていたらしく、学校では美術の先生として教鞭もとり、また趣味で写真や水彩画、模型作りなど、とにかくものづくりに情熱を注いだ人だった。

そんな祖父の遺品の一つに、このカメラがあった。

Sofust_tocamerato

ゼンザブロニカS2。

祖父が死んでからずっと倉庫にしまってあったものをぼくが二十歳くらいの頃に引っ張り出してきて、使い方もわからないくせに自室でそれっぽく置いてあった。

一度使ってみようとカメラ屋さんに持って行ったことがあるのだけれど、特に修理なども必要なく普通に使えることは確認済み。
その時フィルムを入れて何度かシャッターを切った気がするが、すぐに忘れてしまった。

この冬の一時帰国の折、何を思ったかぼくはこいつをNYに持っていくことにした。

特に理由はなかった。

ただ、ニューヨークに(恐らく)縁もゆかりもなかった祖父と、この街を歩いてみたかった。

目次

祖父との思い出

正直、祖父との思い出はそれほど多く無い。

ぼくが6歳の時に亡くなってしまったし、最後の一年は入院してほとんど病院にいた。

ただ、一緒にプラモデルを作ってもらったり、絵を描いてもらったり、地元の町をぶらぶらと散歩したり、背の高い祖父の背中を追いかけていた記憶が、今も鮮明に残っている。あまりしゃべらない人だった。

現在の実家はもともとは祖父母の家で、ぼくらが引っ越してくる際に建て直したものだ。
昔の家にはとても狭い祖父専用の部屋が二つあって、一つは祖父が絵を描いたり模型を作ったりする部屋。もう一つは、暗室だった。

幼かったぼくにとってはその隠れ家のような空間がとてもカッコよく思えて、祖父が何かしている時にこっそり覗き込んでは「入っちゃいかん」と諌められたのを覚えている。

祖父が亡くなったのはその古い家を建て直し、ぼくらが引っ越してきてこれから一緒に暮らそうとしていた矢先のことだった。

新しい家には祖父が使うはずだった暗室があったが、祖父がなくなってからは改装して、祖父の遺品(主に本)をしまう倉庫になった。
アートやデザインに強い興味を持ち始めた大学生の時のぼくは、そこでよく祖父の持っていた写真集や画集を開いては、祖父が見ていた世界に触れていた。

このブロニカも、そこに保管してあったものだった。

祖母から聞いた祖父

ニューヨークに渡ってからは、一時帰国の度にできるだけ祖母と時間を過ごそうと努めている。

両親が共働きだったこともあり、必然的に祖母と過ごす時間が多かったぼくは当然のようにおばあちゃん子に育った。
もう米寿を目の前に控えた祖母はとてもじゃないがそんな年には見えないくらい元気そうで、しかしやはり身体にはそれなりに負担も来ていて、週に1〜2回リハビリに通っている。

だから、時間のある時は祖母と一緒に食事をし、話し、できるだけ長く過ごそうとしている。

そうやって過ごす中で必ずいつも話題に上がるのが、祖父の話だ。

生前の、ぼくが生まれる前の祖父がどんな人だったのか。
そこで聞く祖父の話は、聞けば聞くほどにぼくがかつて抱いていたイメージとはかけ離れたものだった。

趣味に生きてるのかと思いきや休日返上で職場に篭り切ったり
寡黙な人なのかと思ったら学生を家に招いては宴会をしたり
自分に厳しい人なのかと思ったらよく祖母にお小遣いをせがんだり

一番衝撃だったのは、祖父が祖母をデートに誘った時の話。
あの人が、誘ったのか。

思えば知らないことだらけである。

そして、知れば知るほど、ぼくは祖父と似ている気がする。

もっと祖父を知りたくて

祖父がもし今も生きていたら、彼はぼくにどんな話をしてくれたのだろうか。

想像もつかないけれど、想像してみたい。

だから、ぼくはこのカメラをここへ持ってきた。

ニューヨークの街を歩きながら、祖父のことを考え、色々想像してみたくて、この重たいカメラをこの国まで運んできた。

ぼくはカメラのことは全然わからないし、フィルムカメラもほぼ使ったことが無い。
とんだ素人だけど、でも、写真を撮ってみようと思う。

縁もゆかりもないニューヨークで、祖父と散歩をしながら。

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さがやん
ブロガー/企画屋
仕事や遊びを効率化するガジェットやツールを愛して止まないブロガー。大阪でデザイン制作やスタジオ運営をする会社を経営しながら、田舎の古民家と行き来する二拠点生活を行っています。
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